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教室の沿革
慶應義塾大学内科学教室は、北里柴三郎先生門下の西野忠次郎教授が山口県立病院長から、大谷彬亮(もりすけ)教授が養生園から赴任され、大正9年に創設されました。その後、大谷教授は恩賜財団済生会病院長、北研附属病院院長として転出され、昭和2年大森憲太、平井文雄両助教授が教授に就任され、昭和2年に一つの内科学教室を西野、大森、平井の3教授が主催する形の慶應独自の教室運営体制が構築され現在に至っています。北里門下により開設された内科学教室は当初感染症、栄養学を中心にさまざまな臨床・研究が展開されてゆきました。
西野教授が行われた『脾腫』の研究は広範な内容をもち、後の三方一宅教授によりこの研究は大成されました。大森教授は『食餌療法』を研究し、循環器、腎、新陳代謝の臨床・研究に力を尽くし、のちの慶應医学の生理学、病態生理学的方法の流れをつくり、現在に至っていると言われております。平井教授は呼吸器病学とくに肺結核の臨床に尽力され、関連の病院の発展に大きく貢献されました。
戦中、戦後の混乱期を乗り切った内科学教室は、石田二郎教授、三方一宅教授、相澤豊三教授の時代を迎え、大いに発展しその機能も分化されてゆきました。そして、昭和38年当時としては他大学に先駈けて臓器別診療体制を念頭に5内科制(呼吸循環・消化器・神経・腎臓内分泌代謝・血液感染リウマチ)に移行し、診療・教育・研究を分立するようになりました。そして、平成の時代になり、内科学教室においては、呼吸循環器内科は循環器内科と呼吸器内科に、血液感染リウマチ内科は血液内科とリウマチ内科に分流し、平成21年から7内科体制へと移行して参りました。
循環器内科は石田二郎教授の系統の流れを組み、その研究の主たるテーマは永らく呼吸器および循環器の病態生理学で、これを中心とした臨床と、研究室員および学生の指導、教育を行って参りました。
石田 二郎教授(昭和19年-昭和38年)

当時全国的に結核が蔓延し、国民死亡原因の第1位であったことから、その研究と診療に全力をあげてまいりました。講師五味二郎、笹本浩らとともに成人肺門リンパ節結核の研究、肺結核症の病態生理に関し、詳細な研究を行い、肺結核症の肺機能、外科療法時の心肺機能、病態生理の研究を広範に研究いたしました。五味助教授(のちの血液感染リウマチ内科教授、杏雲堂病院長)らとともに、化学療法の作用機序等に関し詳細な研究を行いました。さらに、笹本助教授らとともに心肺機能、心肺動態、肺循環、肺内ガス分布について、換気機能、肺胞機能、肺循環の関連の上に立って新たな心肺生理学を日本に提唱し、気管支喘息、慢性肺気腫、肺性心などの特殊な治療法を開発いたしました。また、細野清士助手(のちの防衛医科大学教授、同病院長)らとともに、冠状動脈硬化の病態生理と肺循環を詳細に研究行って参りました。退職後は、警友総合病院長に就任され、勲三等旭日中綬章を綬章されております。
笹本 浩教授(昭和38年-昭和49年)

笹本浩教授は石田教授の後任として教室を継承され、循環系と呼吸系の相関に興味を持たれ、心肺動態という概念を初めて提唱されました。昭和25年―26年にロックフェラー財団のフェローとして留学後、本邦で初めて人体に心カテーテルを施行され、この方面の創始者として活躍されました。昭和28年より本格的な肺機能の研究を開始され、同年酸塩基平衡の研究も発表され、さらに肺循環という概念を提唱されました。昭和29年にはバリスト、パルスオキシメーター、エレクトロカイモ、血圧トランスジューサ、圧波形などを発表し、循環器領域でも多くの業績を残しました。昭和30年には雑誌「呼吸と循環」(医学書院)を創刊され、同誌は心臓・肺領域の最も伝統と権威のある雑誌として現在も続いております。同年に水分・電解質代謝、降圧療法、運動負荷、肺水腫などの概念を導入され、日本の内科の近代化に大きな足跡を残されました。また、昭和30年人間ドックにおいて本邦で初めて肺機能検査をルーチーンで施行されたのも笹本教授の功績であるとされております。昭和34年には慢性肺性心という概念を提唱され、今日の『原発性肺動脈高血圧症』の診断と治療の基礎を創ったとされております。昭和36年「肺機能セミナー」の創設、「起立性循環調節」の概念の提唱、昭和38年には「呼吸器疾患と大気汚染」等、現代の呼吸器内科学、循環器内科学の基盤となる診療体系、研究体系を作られました。門下生としては国枝武義助手が本邦における原発性肺動脈高血圧症の診療体制を確立し、国立循環器病センター内科部長を経て、伊勢慶應病院病院長(内科学教授)に就任されました。石川恭三助手は杏林大学医学部創設時に赴任され、第二内科教授となられました。
厚生省関係では成人病基礎調査、結核障害程度の認定、国際疾病分類、等に功績を挙げられ、労働省関係ではじん肺法改訂、労働省障害者投球の研究等にも尽力されました。昭和48年日本循環器学会会長と努められ、中村芳郎講師、半田俊之介講師とともに、「肺性心」の会長講演を努められました。昭和49年日本胸部疾患学会会長を努められました。教授在任中の昭和49年、東海大学教授兼医学部附属病院長に就任されました。昭和53年にはThe World Congress of Cardiologyの事務総長、昭和55年には日本内科学会会頭に選出されましたが、その直前病に倒れ、亡くなられました。勲三等旭日中綬章を綬章されております。
横山 哲朗教授(昭和52年-平成4年)、中村 芳郎助教授(昭和52年-平成2年)

笹本浩教授が教授在任中に新設された東海大学病院長として赴任したのち若干の教授空白の時代がありました。この頃になると呼吸器病学と循環器病学はかなり専門性が確立され、呼吸器内科部門を横山哲朗教授が束ね、循環器内科部門を中村芳郎助教授(のちに老年内科教授)が束ねる形となりました。循環器内科部門は心臓カテーテルを半田俊之介講師(のちに東海大学教授、東海大学東京病院長)、心エコー・不整脈検査等を中央臨床検査部の小川聡講師が担当し、診療体制は徐々に整っていきました。臨床面・研究面でも山崎元助手(のちの慶應大学スポーツ医学研究センター教授、同センター長、常任理事)、中澤博江助手(のちの東海大学教授)らにより心血行動態や心筋虚血に関する研究が展開されました。大鈴文孝助手(のちの防衛医大教授)、林潤一助手(のちの杏林大学教授)らは心血管領域にアイソトープによる検査法を導入し、心筋虚血に関する検査法・研究を導入されました。堀進悟助手(のちの救急医学教授)、吉野秀朗(のちの杏林大学教授)は心臓領域における救急医療体制の確立に尽力されました。盛英三助手は心血行動態に関する非放射性微粒子を用いた研究を開始され、国立循環器病センター部長を経て東海大学教授に就任されました。また、谷正人助手(のちの老年科講師)は摘出還流心を用いた心筋虚血の研究、楠原正俊助手(のちの防衛医大助教授)はラジオイムノアッセイを用いて心臓に存在するホルモンであるANPの研究を開始し致しました。後藤信哉助手は血小板血栓領域の研究を開始しましたが、半田俊之介東海大学教授の赴任にしたがって同大学に赴任し、その後半田教授の後任として同大学教授に就任されました。
半田講師の下で心カテ班のチーフとして秋山英明助手、大西祥平助手(のちの慶應大学スポーツ医学研究センター教授、同センター長)、阿倍純久助手(のちの東海大学講師)らが活躍し、心臓カテーテル検査が飛躍的に発展してゆきました。昭和58年に狭心症に対しカテーテルによる冠動脈拡張術(PTCA)が初めて実施され、これ以後急速にこの治療法が普及して参りました。さらに、半田講師は僧帽弁狭窄症に対し、経皮経管僧帽弁形成術(PTMC)を一早い段階で導入し、開胸せずに心臓弁膜症を治療する道を切り開きました。非侵襲的検査に関しましても、小川講師により断層心エコー法が開始され、心臓弁膜症、虚血性心疾患に対する診断制度が飛躍的に発展いたしました。また、小川講師、三田村秀雄助手により不整脈に対するプログラム電気刺激が開始され、診断が困難であった臨床不整脈の診断が可能となり、同時に致死性心室性不整脈に対する基礎的研究も飛躍的に発展いたしました。
中村助教授の門下生としてはこの他にも多くの人材を育成し、服部成彦助手(けいゆう病院長)、秋月哲史助手(のちの川崎市立病院長)、村山晃助手(さいたま市立病院長)などを輩出いたしました。中村芳郎先生は老年科教授となられた後も循環器領域の発展に貢献され、日本心臓病学会理事長となり同学会を主催されました。
小川 聡教授(平成4年-平成21年)

平成4年、横山教授の後任として小川聡教授が呼吸循環内科を継承し、小川教授が循環器内科部門を、山口佳寿博助教授が呼吸器内科を束ねる体制が確立されました。済生会中央病院より三田村秀雄講師(のちの寄付講座心臓病先進治療学教授)が帰室し、小川教授の右腕として、不整脈を中心とした診療全般を統括されました。宮崎利久助手は不整脈を中心とした研究を展開すると共に、カテーテルアブレーションを創始され、WPW症候群、上室性不整脈等を中心に不整脈に対する侵襲的治療法を確立されました。赤石誠助手(のちの北里大学北里研究所病院教授)は中央臨床検査部心機能室長として心エコー検査を中心とした非侵襲的検査法を確立すると共に多くの教育書籍を出版され、若手医師の教育に尽力をされました。吉川勉准教授は心不全の臨床研究を推進し、安齋俊久講師(のちの国際医療福祉大学教授)は心筋梗塞後の心臓リモデリングの形成過程に関する基礎的・臨床的研究を発展させました。朝倉靖講師は心臓カテーテル領域で冠動脈インターベンション領域に大きな貢献を致しました。岩永史郎講師は赤石助手の後任として長らく心機能室長を担当し、心エコー検査により心臓低侵襲手術時の手術法決定などの領域で大きな貢献をもたらしました。福田恵一講師は心臓病研究に分子生物学的手法、生化学的手法を初めて導入し、心肥大・心不全の病態解明、心臓弁膜症発症の分子機序の解明、骨髄間葉系細胞、ES細胞からの心筋細胞誘導法の確立など再生医学領域を発展させ、再生医学教室教授として赴任いたしました。佐藤徹講師(のちの杏林大学教授)は国立循環器病センターで国枝部長のもと肺高血圧症の臨床に尽力されたのち帰室し、慶應病院では肺高血圧症専門外来を設立し、慶應大学を同疾患の東日本における拠点として大きく発展させました。副島京子講師、高月誠司講師は宮崎助手の後を受けてカテーテルアブレーションを発展させ、特に副島講師は心室頻拍、高月講師は心房細動の領域で大きな活躍を致しました。また、三好俊一郎講師は心筋細胞の電気生理学的検査を開始し、パッチクランプ法を確立いたしました。佐藤俊明講師は植込型除細動器(ICD)、心再同期療法(CRT)などのデバイス植え込みの中心的働きを致しました。足立健助手は血管生物学の研究を創始し、医化学准教授を経て防衛医大准教授に就任されました。
小川教授は不整脈の心電図診断、誘発法試験、薬物療法の領域で日本の中心的役割を果たし、本邦代表として世界共通の抗不整脈薬の分類(シシリアンガンビット分類)を確立する際に中心的役割をはたしました。日本循環器学会理事長、日本心臓病学会理事長、日本不整脈学会理事長、日本心電学会理事長等を歴任し、これらを含めた多くの学会を主催されました。また、本邦初の心房細動治療法の大規模臨床試験(J-Rhythm試験)の主任研究者として中心的役割を果たされました。これらを含め、小川教授は本邦における不整脈診療の代表的存在として活躍されました。退任後は国際医療福祉大学三田病院長として赴任されました。